
日本には、落語、講談、浪曲という、江戸時代から連綿と続いてきた話芸があります。まさに宝の山です。こんな宝庫を見逃しておく手はありません。中でも最もポピュラーな話芸が、落語です。現在、プロの講談師と浪曲師はそれぞれ100名程度と言われていますが、落語家はその10倍、1,000名近くにも及ぶそうです。
落語家は、「噺(はなし)」を語る人という意味で、「噺家」とも呼ばれます。そんな彼ら、彼女たちが、毎日のように日本のどこかで落語を語っているのです。落語を聞く機会は、思っている以上に身近なところにあふれています。それなのに、寄席に一度も行ったことがないという方も、決して少なくありません。全くもったいない話だと思います。
落語の魅力はどこにあるのでしょうか。よく落語は「日本の伝統芸能」などと呼ばれますが、私はそれがどうも堅苦しい呼び方で好きになれません。数百年にわたって受け継がれてきているので、そう呼ばれても仕方がないのかもしれませんが、落語は本来、もっと緩くて気楽なものです。いつの世も、世間の無情や不条理を笑い飛ばしてやろうというエンターテインメント、それこそが落語の本質なのですから。
落語は基本的に、場面設定や登場人物の関係を、たった一人の話者が語りだけで作り出していく演芸です。一言で落語と言っても、バカバカしい会話をひたすら繰り広げる滑稽噺から、人間の機微に触れる人情噺、ゾクゾクするような怪談噺まで、その幅は実に多岐にわたります。そして、噺を一気に収束させる最後の「サゲ」も、落語ファンにはたまらない瞬間です。多くの人物を一人で巧みに演じ分け、最後に見事に締めるサゲの鮮やかさ。これが落語の大きな魅力であることは間違いありません。
ちょっと落語を聞いてみたいと思った方に、まずおすすめしたいのがCDなどで聴くことです。寄席やホール落語会に足を運んで、現役の芸人を生で見るのももちろん良いのですが、まずは一度、昭和の名人たちの芸をCDで聴いてみてほしいと思います。CDショップに行けば大抵置いてありますし、一部は図書館で借りられたり、最近では配信で聴けたりするのもチラホラと出てきています。多くはありませんが、DVDが出ている噺家もいます。
明治初期に「落語中興の祖」と言われる三遊亭圓朝が完成させた近代落語を、スタンダードな芸として磨き上げていったのが、昭和の名人たちでした。何を聴くかは、タイトルだけで選んでしまって全く問題ありません。中でも特に聴いてほしいのが、古今亭志ん生、柳家小さん、三遊亭圓生、古今亭志ん朝、立川談志の5人です。現代の落語を語る上で、この5人は外せません。

多くの落語家を聴き比べてほしいとまでは言いませんが、同じ噺でも、演じる噺家が変わればその世界観やムードがまるで変わってしまうところが、落語の実に興味深い点です。たとえば「芝浜」という噺を、志ん朝さんが語れば、粋で気っ風の良い江戸っ子夫婦の愛情がさらっと気持ちよく描かれるのに対し、談志さんが語ると、人間の感情が前面に押し出されてきます。人間の弱さや怒りを、照れも恥ずかしげもなく叩きつけてくるのが、談志さんのすごさです。
このように、いろいろな側面から人間の弱い姿、揺れ動く様を描いていく落語を聴いていると、「しゃーねぇな」という江戸っ子の気っ風のよさが心地良く、知らず知らずのうちに多様性というものが流れ込んできて、結果的に私たちの人生を豊かにしてくれます。談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」と言い切りました。
さらに面白いのは、同じ演者であっても年月を経るごとに解釈が変化したり、人物描写がより深まってきたりすることです。若い頃の威勢の良さで語っていた噺が、歳を重ねるにつれて人生の哀愁を帯びてくる、ということも珍しくありません。演者とともに噺そのものが育っていく、そのプロセスに立ち会えるのも、落語ならではの楽しみです。きっと、落語が好きになってハマっていくと、同じ噺を別の落語家で聴きたい、あるいは昔の録音と聴き比べたい、と思うようになるに違いありません。

夢中になれるものは、案外身近なところに転がっているものです。落語もそのひとつだと思います。特別な準備も、難しい知識も必要ありません。まずは一枚、気になるタイトルのCDを手に取ってみる。それだけで、江戸から続く豊かな話芸の世界への扉が開きます。聴けば聴くほど、噺家それぞれの個性が見えてきて、次はあの人の芸を聴いてみたい、この噺を別の誰かで聴き比べてみたい、と気持ちが膨らんでいくはずです。それこそが、落語という趣味の懐の深さです。ぜひ一度、手に取ってみてはいかがでしょうか。
講談や浪曲については、また別の機会にご紹介したいと思っています。